タイプ3的価値観から、再び、ぶどう園の労働者の譬えにもどって

  • 2015.01.22 Thursday
  • 14:55
北米でエニアグラムが一般に広がった過程で、それは心理学的なツールとしてて用いられるようにり、本来、エニアグラムが指し示している人間の精神(霊性)の広がりが見失われた(Sandra Maitri)。その精神の広がりに向かう。

※sriritus(ラテン語):今日では宗教的体験は「霊性」という概念に包括されることが多いが、この言い方もまた原始キリスト教のこの用語に接続するものなのである。今日、「霊性」の表現がかくも有名になったわけは、ただ、この言い方をすれば伝統的な教会的敬虔から距離がとれるという理由一つに過ぎない。「教会」が文化の意味論のマーケットでは敗者であるのに対して、「霊性」は勝利者なのである。(ゲルト・タイセン)

pneuma(ギリシャ語) sriritus(ラテン語 )

スピリチュアル(霊性的)な自己変容への道を指し示すものとしてエニアグラムを理解しようとする観点から、先日のエニアタイプ3のところで引用した聖書の中の『ぶどう園の労働者の譬え』(マタイ20:1−16)を引用する。

ブドウ園で働くために日雇い労働者が、それぞれ違った時間に雇われる。日暮れにその日の賃金の支払いを受けるのだが、最初に仕事の終わる一時間前に働いたものに1デナリオン(一日生活できるぐらいの賃金)が支払われ、他の者にも同一の賃金が支払われる。長い時間働いた者はもっともらえると思っていただけに不満を口にする。

しかし、雇い主は朝から働いた者には 1デナリオンという約束をしていたので不正を働いたわけではない。 私たちの考えは、同じ労働で長く働いた者が多くもらえるのが当然と考えるだろう。でないと不幸へに感じる。 しかし、イエスの譬えはそれと違った見方をするようにさしむける。 以下、ゲルト・タイセンの解釈を引用しよう。

「ぶどう園の持ち主は業績によってではなく、善意と必要に応じて報酬を払う。彼には、より少なくしかもっていない者たちにより多く与えるという自由がある。しかも、そうすることで彼は他の者たちから何かを奪い取るというわけではない。このことに我慢がならない者はだれであれ、妬んでいるのであり、「悪しき目」をしているのである。ぶどう園の持ち主の行動は経済的な労使関係の論理には矛盾する。しかし、家族の中での分配の論理には矛盾しない。家族の中では、全員がそれぞれの業績とは無関係に同じ分配に与る。ぶどう園の持ち主は家族の中の父親のように振る舞っているのである。」(『原始キリスト教の心理学』)

タイプ3的な価値観(にかぎらず、私たちはほとんどそう考えるだろう)では、人の価値がその人物が達成したものによって測られる。同じ人間でも、より価値のある人間とそうでない人間が存在することになる。その指標は自らにも当てはめられるので、自らが価値ある人間であろうとして、この社会で「価値あるとされる」ものにならなければならない。

タイプ3の価値観を心理的なレベルで見れば、それは優れた業績を上げる前向きな行動力として評価されるかもしれない。けれども、スピリチュアルな次元においてみれば、これはより価値のある人間とそうでない人間がいるということになり、人間の尊厳ということをどうとらえるかという問題に関わってくる。(これはかなり婉曲的な表現である。人の価値を測ることは、それは傲慢な罪であろう)

人は人である、そのことによって、いかなる人間も人として、価値ある者 であり、人間としての尊厳を保たれなければならない。 原始キリスト教の世界で、イエスが社会の底辺層に位置する人々の友として振る舞ったのは、そしてそれによって人々に何らかの癒しがもたらされたというのは、イエスがその人々の友となることで、人としての尊厳を回復したからにほかならないのではないだろうか。
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