完全主義者 エニアタイプ1 性格のとらわれ

  • 2015.01.14 Wednesday
  • 12:01
01:完全主義者

ここでは性格の囚われに焦点を当てる。

一番に取り上げるのがこのタイプになるのは、このタイプの価値観や生活習慣は社会的な基盤に応じるものであり、その性格の持つとらわれが適応を促すことになると思うからだ。

完全主義者は、よく誤字脱字が目につき、いったんそれに気づいたら直さずにはいられないかもしれない。
ごみ収集のルールにうるさく近隣の住人のいい加減さにいらだちながら、達筆の張り紙をするかもしれない。
時間を守り、約束は守るべきだという信念を持っていることだろう。

「約束を守る」のは望ましいこととされる。

しかし、人の心のホンネについて聞いてみると、
「必ずしも守るとは限らない」「約束は守れないかもしれないのでしたくない」という人もいる。
他人が約束を破ったことについて寛容な人もいる。

完全主義者の特徴の一つは“非寛容”であるという点だ。

完璧主義者の頭の中には、この世界の完璧な見取り図がある。
それはあるべきものがあるべき場所に位置しているモノクロ写真のようなものかもしれない。
そして、その見取り図のようにこの世界があるべきだと感じている。

完全主義者のこだわりは、人によって違い、さまざまな面に表れる。
皆同じであるわけではない。本人の生育環境や体力・知的レベルその他によって違ってくるだろう。

それこそ、靴がそろっていない、家の中がきちんとしていない、家事全般に関することに完璧を求める人もいれば、理想の社会をめざす完璧主義者もいよう。

環境・教育・男女平等、世界平和について。完全主義者の中には社会を改革していきたいという動機に駆られる人もいるかもしれない。

それは社会的な貢献となることもあるだろう。しかし、本書のテーマはあくまで性格のもつ・・・についてであって、それが社会的にどの・・・

完全主義者の内面には“怒り”がある。その怒りを完全主義者は抑圧しようとするが、怒りと言うものは腹から湧き上るものであり、生理的に立ち上がってくるものなので、それを完全に抑圧するということはできない。「腹が立つ」という日本語は“怒り”について言いえて妙だ。内臓がむかむかするのだ。

「受け入れがたい」ということを身体が表現する。しかし、自我はその身体の表現を抑圧しようとするため、心身は堅く緊張する。

怒りを抑えようとしている完全主義者からは、いわゆる「ぴりぴり」とした雰囲気が生まれる。

完全主義者の几帳面さ、物事へのこだわりは、神経質さをあらわすものと勘違いされるかもしれないが、このタイプは頭脳型の神経質さを持ち合わせてはいない。完全主義者のカテゴリーに入れられるべきは、身体型の人間だ。

人間の精神機能はいわゆる知情意という見方ができる。頭の中の思考によるものが「知」であり、共感能力や自分の気持ちを表現する、人との感情面でのコミュニケーションを図るのが「情」であり、「意」は意志の力である。意思という思いではなく、意志という志を意味する漢字をここで使いたいと思う。

完全主義的傾向の強い人に、自分の体を絵に描いてもらうと、胃腸のあたりが赤く塗られるなど、共通してみられる。「はらわたが煮えくり返る」という言葉があるが、まさにはらわたが熱を帯びるのが、このタイプの人間の怒りであろう。

完全主義者は意志が強い。コツコツと粘り強く物事をやり遂げようとする。完璧を目指すなら、そうする他ないだろう。そこで、「しつこい」という性格が一つの性格特徴として出てくる。

完全主義者は超自我が発達したタイプである。自我と言うのは意識的な部分。超自我は意識を超えた部分であり、それは潜在意識・無意識にまたがっていると考えられる。

超自我が発達しているというのは、意識にまたがる部分に関しては、自分を監視するもう一人の自分のような形で立ち現れる。それは内なる声のようなものかもしれない。

完全主義的傾向の強い人は、「すべき」「すべきでない」という命令と禁止によって縛られている。怒りは「面に表すべきものではない」のであり、「感情的になってはならない」「怒ってはならない」という内なる声のもとに抑圧される。

しかし、先ほど述べたような理由から、それを完全に抑圧することはできないのだ。

腹の中の怒りはそれを抑圧しようとすると、身体的な緊張が生じる。肩こり、腰痛なども実際に起こりうるのだ。完全主義傾向の強い人の体の堅さ、硬そうな感じ、すなわちしなやかさに欠けている。もっとも、舞踏やヨガなどを行っている場合は違ってくるだろう。

ユングの外向・内向タイプでいえば、完全主義者は外向的思考タイプの記述に近いものがある。
関心は外の世界に向かい、感情を交えずに合理的な判断を下そうとする。

しかしながら、このタイプの思考は論理的なプロセスをたどる頭脳型の思考ではない。

ここで、思考というものの本質についてとらえておきたい。
思考とは論理的推論のプロセスであり、思考の枠組みの中に構成されるのが概念である。
純粋な思考型のタイプは、このことについては、別のタイプのところで述べるが、抽象化を行う。

完全主義者は抽象的なことを考えているのではない。関心は外の世界の事象や人に向かっている。
社会の他者との関係に。しかし、完全主義者は答えるだろう。自分はこう考えていると。

おそらく、それは彼(彼女)の意見なのだ。意見は思考ではない。
論理的な推論のプロセスをたどって出てきたものではなく、それは経験に基づく信念だ。判断でもある。

こうすべきという自論があり、それは主義主張の形をとるだろう。「
意見を述べてください」と言えば、ほとんど考える間もなく、自らの内にあるものを語れるだろう。
意見や信念、主義主張であり、それは過去の経験に基づくものだ。

考えて言葉を発するには、思考のプロセスをたどるという作業を経なければならないため、時間がかかる。

思考は抽象化を行い、言語は具体的なものから離れていくが、完全主義者の言葉は抽象化へとは向かわない。
いったい、抽象的な世界に完璧な図というものが描けるだろうか?

それゆえ、考える人の発言は即答とはなりえないのだ。

思考は論理のプロセスをたどるのであり、仮定によって推論される道筋が違ってくるということがありうる。

純粋な思考タイプの思考は、フレキシブルであるともいえるのだ。目的地を固定せず、揺れ動く食指のようでもある。

意見・信念を持つタイプの人間の性格特徴としては、「押しつけがましさ」「頑固さ」があげられる。
自分は変わらないが、他者を変えようとする。

完全主義者の主義主張、信念を変えるのは並大抵のことではない。

間違ってはならないのは、完全主義者があらゆることにおいて、完ぺきであろうとしているのではないということだ。自我の意識の及ぶ範囲、自分が見たい部分。本人が関心を向けているところに完全主義の本領が発揮される。


ある主婦の方はイライラするほど台所のシンクやドアノブに磨きをかけたくなるのだそうだ。片づけが始まり、ピカピカに磨き上げる。

そういうところからすると、完全主義者の機動力のもとには欲求不満の匂いがする。

こういった人はハウスクリーニングや家事代行の仕事で能力を発揮するだろう。本人がそれを仕事にしたいかどうかはまた別問題であるが。

何かが満たされていない。欲求不満を解消するために自分でそれを満たそうとする。祖も満たそうとするところが何なのか。

誤字脱字を直さずにはいられないという人がいる。他人の言い間違いにも黙ってはいられない。訂正せずにはいられないし、バッグのチャックが開いていたら閉めずにはいられない。自分の見取り図の中で完ぺきではないところを見ると我慢がならなくなるのだ。

エニアグラムでタイプ1と呼ばれるのがこの完全主義者にあたるが、改革者と名付けている人もいる。その呼び名は物事をより良き方向に改善していきたいという欲求を表すものだが、しかし改革者は革新的な人間ではない。

完璧な見取り図と言うものは固定している。そこからは動かないのであり、フレキシビリティに欠けている。

完全主義者は保守的であると言えないだろうか。斬新なアイデアはこのタイプの人からは出にくいと言わざるを得ない。

完全主義者にはある種の繊細さは欠けているからである。

クレッチマーの粘着気質に当たるのであり、爆発性の怒りを持つ。分裂気質ではない。

完全主義者の頭の中にある超自我がくだす命令や禁止は、他者にもあてはめられる。

このタイプの人は、他者を自らが裁判官のように裁くことにつながる。
しかし、自分は裁かれないものという認識でいるのだから、その目線は非常に高いところにある。

完全主義者の思い上がりについては、聖書の中のパリサイ派、またパリサイ人として描写される人々の内に見て取れる。
自らは律法を守り、神の前に正しい行いをしている。自らを義とする者であるが、イエスはそのパリサイ人に強い批判の言葉を向ける。

一般社会では完全主義者の正しさは、世の中の正しさとして通用することが多い。
彼らはその時代、その国の規範にしがたい、それが正しいと思われない時には改革を目指す。

彼らにとって悪は許しては置けないものとなる。

先にモノクロ写真のような見取り図と言ったが、完全主義者の正義感は正しいか正しくないかの二者択一であり、そこにグレーゾーンが存在しない。

自分は何が正しく、何が間違っているか、善悪正邪の観念が発達し、自分はそれを知っているという感覚が、アプリオリにこのタイプのなかにはある。

それゆえ、タイプ論をスピリチュアルな次元にまで引き上げれば、このタイプの人の本質には、本来そういった正義についての知がやどっているはずだということになる。

彼らの正しさとは倫理道徳的な規範に従っていること。おおむねその時代のその社会の道徳規範に一致する。

イエスが厳しく言い放つ、パリサイ人の行いはたしかに当時の社会において、神に仕え神の前で正しい行いとみなされていた。

しかし、イエスは彼らの内面にあるものについて糾弾するのだ。

パリサイ人は、自分たちが罪人のようではないことに感謝する。当時、ローマの手先となり、同胞から税金を取り立てた取税人。もっとも忌み嫌われる存在。貧しさゆえに、そのような仕事に就いた者もいた。そのような者でないことに感謝するのだが、イエスはときには独特の譬えを用いて、語る。

神は本来愛と正義の神である。神の愛が働けば、弱く罪深き人間を救済する。しかし、神は同時に正義の神であれば、罪を犯した者を罰する。そのはざまで苦しむのは神自身であり、新約聖書の中の神は、愛の神となる。

完全主義者は愛なき正義をとなえるのか?

完全主義者の中には、幼いころから「これはいいこと」「これはいけないこと」の区別があり、自分を律してきたところがある。
そのため、本来の感情に目を向けず、感情は未熟なままに取り残され、他者の感情を受け止めることも、未熟なままの感情機能においては難しくなっている。どこかに、感情的な鈍さがあり、共感能力に乏しい面がある。

完全主義者の内面には、幾つになっても我慢をづづける子供がいる。たとえば、祭りの日に、子供たちが大勢繰り出し、露店の駄菓子を買い求めているのを見ている完全主義者の子供。彼(カノジョ)なはぜか、「そんなものは買ってはいけない」「食べてはいけない」という親の言いつけをよく守る。おおむね、そういった食べ物は黴菌がいっぱいついているかもしれず、不潔であり、着色料や甘味料に使われているものも健康にはよくない。とりわけ歯の健康には善くないと教えられている。

だから、買い食いをしている子を見ると、チョコレートコーティングしたバナナや真っ赤なリンゴ飴、焼きそばやお好み焼きなど。あんなものは食べてはいけないと。

でも、どうだろう、彼の中には食べてみたいという欲求がある。その欲求を懸命に抑えているのだ。

だから、他の子どもたちが、毒々しく着色された飴やいつの油脂かわからないアブラであげられた揚げ物類、アブラ菓子を羨望の目で見ている。

大人になってからも、関平主義者の、自由に生きる、いささが奔放な人を見るまなざしに、これと同じ羨望が宿っているのを見て取ることができるだろう。しかし、彼はその羨望すらも抑圧する。

欲望に打ち勝つことは、完全主義者にとって自らを律することになり、それは人としての正しい行いと受け止められる。

完全主義者のある種大人びた振る舞いの中に、ときおりこういった子供っぽい反応を見ることがある。

羨望とは自分はもっていないよいものを他者が持っている、経験していることをうらやむこと。

メラニー・クラインの『羨望と嫉妬』から引用する。

羨望という感情については別のタイプのところで、再び触れてみたいと思う。

「自分は正しい」という信念はいったいどこからくるのだろうか。

完全主義者はまるで、アプリオリに「自分は正しい」者として存在しているようだ。
しかしそれは別の言葉でいえば、性格の「思い込み」なのである。

自らの欲求に従うことができず、欲求を抑えることにより「ねばならない」「してはならない」の声に従うと、それによって抑えられた欲求は圧がまし、欲求不満が内面で高まっていく。

ある時、マグマのようにその欲求不満が抑えきれなくなって吹き出すことはないのだろうか。爆発的な怒りを見せることはないわけではない。

しかし、それよりもむしろ、先にあげた生理的反応と言うところから、抑圧しきれないものが岩の裂け目から吹き出す火山ガスのように、間欠的に立ち上る。

そこにこのタイプの人の不機嫌があり、ときに逆鱗に触れたような怒りに出会わなければならない羽目になる。

欲求不満は講じると、抑うつ的な気分を生む。完全主義者は自らにおいても完全であることを要求する。

しかし、完全な人間になることは不可能だ。彼が思うような完全さには至らない。

そこで、自らの至らなさに目が行くことになる。「自己批判」はこういった完全主義的傾向に人に生み出された言葉なのかもしれない。

内なる自分に向けて批判の目を向けることになる。自分で自分を批判し、ときに自分に対しても「許せない」と言う気持ちになる。

「許す」「許さない」と言うのもこのタイプにとって大きな課題となるものだ。人は許したり、許されなかったりするものだという前提に立っている。

自己批判から、欲求不満へ、許せない自分。内面に向けて圧がかかると、それは至らなかった自分に対する「自責の念」となり、自分を責め、後悔が始まる。「あのとき、ああしていたらい」「こうしていたら」と反省は過去へとさかのぼる。

過去はもとより取り戻せないものだ。が、その過去へと向かう。そこに、抑うつの根がある。完全主義者は抑うつ的になりうる。

そして、完全主義者は自らを次に述べる別のタイプと自認する場合がある。次の章で取り上げるタイプとは、メランコリックな気分にとらわれやすいタイプである。

しかし、そのタイプに移る前に、もう一つ触れておきたいことがある。

完全主義者の対人関係の面での特徴について。

とりわけ、その困難な部分についてだが、完全主義者は、対人関係においても欲求不満を抱え込みやすい。他者は完璧な人間ではありえず、たとえ愛する人であっても、欠点が目についてしまう。

大体において、完ぺき主義者は物事の欠けた部分に目が生きやすいわけであるから、周りの人間に対しても同様な見方をしてしまっている。

その傾向は、二つの特徴となって現れる。

まず、このタイプの人は他人をほめない。
ある男性は「人は褒めるとつけあがる」「調子に乗る」と言っていた。

自分の妻に対しても、友人が彼女のことをほめてあげればいいのにと言った時に、そういう答えを返したのだが、この男性の父親もまた完全主義者であった。

おそらくは、父親がつねに息子に対して言ってきたことを、彼も受け継いだろうだろう。
その後、彼ら夫婦に子供ができたかどうかは知らないが、この男性が父親になった場合、とりわけ息子であったなら、ほめるということをしないのだろう。

ほめられたからと言って、調子に乗る人間ばかりではなかろうに、彼の中ではそういう信念が育ってきた。

このタイプの人を他人がほめたらどうだろうか。「そんなことでほめられてもぜんぜん嬉しくないですよ」というかもしれない。

ほめないだけなら、対人関係はそれほどまずくはならないかもしれない。

このタイプの人の中には、どんなことでも言い合えるのが友人だと思っていることがあり、耳に痛いことも言い合えるのが友人だと。

より問題が生じるのは、人との関わり方で文句を言いながら人に近づいていくというところだ。

人との関わり方において、ネガティブなことを表現する。そのこと自体が問題なのではなく、自分自身が常に他者との関係において、完全ならざる他者に向かって、他者の至らないところを指摘するようなことをする。

自分自身が欲求不満を感じていると、その欲求不満を他者に植え付けることになる。

肯定的な文脈で他者と関わり、そこに橋渡しをしておいてから、人に注意をしたりクレームをつけるのではなく、初めから注意し、クレームをつけると言ったやり方をする。

たとえば、会社で、○○さん、と呼ぶとすぐ、そこ散らかっているから、片づけといて。社員食堂のおばさんに、こんにちはと声をかけたすぐに、きのうのあのメニューは善くなかったよとはじまるような。

とりわけ、几帳面な完全主義者は(完全主義者はたいてい几帳面だ)が、何にもっともこだわっているかによって、そのエネルギーがどこに欠けられるかは違ってくる。

たとえば、玄関先で靴を揃える。自分は常にそれをやってきた。他人が脱いだままの靴を見るときになる。

そして、揃えずにはいられない。すぐにやってしまう。靴を脱いだら、このように並べておくべきだというのがあり、そうすることに例外は許されない。

それが習い性となり、他人が脱いだ靴までつい、揃えてしまう。

それだけならいいが、直接注意をすることになる。自分のルールを他人にも押し付ける。

靴を揃えるようなことであれば、マナーの部分に属するので、脱ぎ散らかしていた人間は自分の躾の悪さを感じ、言われるままに直すかもしれない。

完璧主義者の日常生活でのこだわりは、部屋の中をきれいにする、鍵は置くべき場所に置く、ドアは開けたらきちんと閉めるといったことであれば、生活の基本であり、見習うべき要素を備えている。しかし、それがゆきすぎると、周りは辛くなってくるだろう。

髪の毛一本落ちていることに耐えられない夫であれば、妻は同様に完璧主義でなければ家事が苦痛以外の何物でもなくなるかもしれない。妻が完璧主義であれば、家の中はきれいになっていても、くつろげない雰囲気が生まれるかもしれない。

美人で完ぺき主義の妻を持つ男性が、息抜きのために外で比較的自由な交際をする女性と遊んでいたということもある。

どこまでそのことにこだわるか。程度の問題がある。

自分自身のこだわりからみて、「至らない」人間を、このタイプの人はたんに「至らない」とみなすだけではなく、人格的な欠点とみなすようなところがある。人格の欠陥でもあるかのようにみなすところに、このタイプの尊大さ、傲慢さが見て取れる。

完全主義者は場の雰囲気を緊張へと導く。

みながリラックスしてわきあいあいとしていたミーティングルームに、このタイプの上司が現れると空気がすっと凍りついたようになるということがある。

とりわけ、上下関係があり、このタイプが上司、教官、指導者であるとき、他のタイプにとっては非常にきついものとなる。ピリピリした雰囲気になる。

ここまででもし、あなたが完璧主義の傾向が強いと感じられるなら、対人関係について見直した方がいいかもしれない。あなた自身が無意識のうちにやっていること、あるいはむしろ良かれと思ってやってきたことのうちに、周囲の人間との軋轢や摩擦を生む原因が潜んでいるかもしれない。

あなたの愛する家族や友人、恋人・パートナーが、あなたから離れていく原因を作ったのはあなた自身かもしれない。

あなたは友情を大切にする人であるだろう。しかしもし、あなたが示すほどの友情に答えてくれないとしたらなぜだろう。

古くからの友をあなたは、友情がそこにあると思っているからこそ、口でけなすようなことを言ったり、不満を漏らすようなことを言っているのではないか。

そもそも、人と関わる最初の場面で、文句を言っているのではないか。

ファミレスのウエイトレスがかわいい子で友達になりたい。しかし、あなたが男なら、そのウエイトレスに最初に話しかける言葉が、「このコップ、汚れているから取り替えて」ということかもしれない。文句を言いながら関わろうとするというのはそういうことだ。

不平不満を言いながら、人に近づくと、近づかれた人はどうだろう。もろ手を挙げて歓迎するものだろうか。

むしろ、かすかに眉をひそめ、引き下がろうとするのではないだろうか。近寄られたくない、関わりたくないという思いが相手の胸をかすめるのではないか。あなたが相手と良い関係を結びたいと思っているにもかかわらず。その真意は伝わらない。

家庭で厳格な父親、口うるさい教師、ほめない。ごみの分別にうるさい隣人。完全主義の主婦はごみの分別のために、袋をとめてあるホッチキスが燃えるゴミか燃えないゴミかで悩むかもしれない。そこまできちんと分けなければ気が済まないかもしれない。

このタイプの正義感の強い人は、正義感を表明するときにも欲求不満の様相を抱えている。彼らの訴えはただしかもしれない。いや正しいだろう。それは正論だ。しかし、聞いている者は、こころからその正論に賛成したいと思わない。なぜか。

完璧主義者に当てはまるのが、ミンデルはある本のなかで言及していた女性闘士の例。世界平和を訴えているらしい。言っていることは素晴らしい。すばらしいアジ演説。しかし、教官を持てないのは、彼女の話し方が怒気を含んだものになっているからだ。

筆者が若い頃のことだが、ある結婚式のパーティで。アジアで活躍する若いカメラマンやジャーナリストが多かった。そこで、ある女性が乾杯の音頭をとったのだが、いまこのときにも飢えた人がいてと言い始め、パーティの装いをしていった若い女性の何人から、自分たちが非難されているように聞こえたという感想がもれていた。

完全主義者に難しいこと。それはいまこのときを、人生を楽しむということだ。自分自身がそうであるから、周りの人間も完璧主義者と一緒だとこころから楽しめないかもしれない。

完璧主義者はハートとのつながりを失ってしまう。「ねばならない」「こうあるべき」という基準にとらわれ、自分自身の内面の欲求を抑圧する。そして、感情的になってはならないと思う。それが習慣となって、本当の感情を見ない。他者の感情を受け止めることができない。

完璧主義者の体型は、闘士型だが(ユング、ナランホ?)、あまり太ってはいない。完璧主義者の中には体重のコントロールのために、ダイエットを行う人がいる。それも、カロリーを制限する厳格なダイエットだったりする。しかし、本来、本能的な欲求は人一倍強いタイプだと考えてよい。そこで、「理性」と「本能」の戦いとなり、そのことにばかり執着することにもなりうる。食べてはいけないと思いながら、食欲を抑えられない。抑えるとその反動が来る。タバコなどもそうだ。なかなかやめられない。

完璧主義者の感情はただ腹の中から湧き上る怒り。これはナイーブな感情ではない。怒りは生理的なものである。「腹が立つ」というが、まさに内臓が煮えくり返るような感じで、それはいくら抑制しようとしても、箱根の大涌谷のように、休火山のガスのように、ぶすぶすと立ち上がり、それがイライラとなって表現される。周りの人間は、そのイライラと、怒りを抑えるために、過剰に自己コントロールしようとしているその抑制的に働くエネルギーに影響され、緊張を強いられる。。

私たちの中の完全主義者的側面に焦点を当ててみよう。まじめで、自分は正しいことをし、間違った行いはしない。倫理道徳を守る人間。勤勉で働き者である。

聖書の中に、放蕩息子の譬えがある。

イエスは単に譬えを語るだけではなく、その譬えを生きている。

この譬えは、父親で始まり父親で終わる。

『ある人に息子が二人いた』放蕩息子の話。財産を二人に分ける。弟、すでに父を殺している。
弟は遠い国に旅立った。飢饉 、豚の世話はユダヤ人にとってこれ以上ひどいことはないほど。息子は父のところにあるパンを。「彼は我に返った」
父親が息子のもとへ走り寄る。こういうことはしない。
祝宴の席へ連れて行く。

畑仕事から年長の息子が帰ってくる。兄は父に向かってどなりつける。兄弟と言えない。この兄は、弟よりもはるかにずっと根本的な仕方で父を片付け殺してしまっている。こうあるべき父、自分自身のために作り上げた父、理想像に使えていた。

「娼婦ども」そのようなことは、彼自身の頭の中で描かれた想像にすぎない。

「子よ、お前はいつも私と一緒にいる…」

物語の結末は開かれたまま

◆放蕩息子の譬え

ルカ15章11-32
ある人に二人の息子がいて、年下の方が財産をもらい遠い国に旅立つ。放蕩生活をして財産を使いはたし、大飢饉に見舞われ、困り果ててもどってくる。父のところの雇人になろうと。その息子を父は喜んで迎え、宴会の用意をさせる。しかしそれを見た兄は父親に文句を言う。父は「お前の弟は死んでいたのに生きかえった、失われていたのに見つかったのだよ」と。

もっとも有名な譬えだ。

ルカ15章、この譬えに先だって見失った羊の譬えとなくした銀貨のたとえがある。

前半が年下の息子、後半が年上の息子の話。この譬えの重点は兄のほうにある。

徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスに対して、ファイリサイ人や律法学者が不平を言う。
いなくなった息子に対して年長の息子が不平不満を漏らしている。

年下の息子、大飢饉が追い打ちをかけ、命の危機に見舞われる。異邦人のもとでユダヤ人が毛嫌いする豚の飼育を任され、しかもその豚どもが食べているいなごまめで腹を満たしたいと思うほどに。

なかには弟の方に自分を重ねあわせる人もいるが、そういう人の方が少ない。多くの人が、兄の方に自分を重ねあわせる。放蕩の末に戻ってきた弟が許されないということに、非常に不満が出る。

ここでの父とは神を表すものであり、神の愛の大きさ、寛容を表す。家父長的な父ではなく、母なる愛を含む愛なのである。

完全主義者:子供のころのこと。自分がほめられた記憶がないという。自分がしっかりしなければならなかったと。学校では遅刻や宿題を忘れるということがなく、模範性的であったかもしれない。

このタイプの共感能力のなさ、独特の感情的な鈍さがある。それは自らを律することを心がけ、緊張感が漂っている。心が開放されないからだろう。

では、どうしたら、完ぺき主義者はその内面の苦しみから解放されるのだろうか。人との関係をより良好に築いていることができるのだろうか。あるいは、私たちの内なる完璧主義的傾向は、私たちにどのような苦しみをもたらしているのだろうか。その苦しみから解放されるにはわたしたちはどうすればいいのだろうか?

<解放への道>
完璧主義者のもっとも大きな思い違いは、「自分は正しい」と思っていることだ。自分の基準に照らし合わせて、人や物事や社会全体が「こうあらねばならない」という信念を手放すこと。
 
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