妬みと嫉妬 虚栄

  • 2015.01.23 Friday
  • 16:29
エニアグラムサロン昨年の5月にタイプ4についてシェアしました。
エニアタイプ4の囚われ(パッション)は、妬み(envy)。

そこで、妬みと嫉妬(jealousy)はどう違うのだろうかという話になりましたね。

メラニー・クラインの『羨望と感謝』という本から引用しよう。

この本では、妬み(envy)は「羨望」と訳されているので、そのまま引用する。
羨望(envy)と嫉妬(jealousy) メラニー・クラインによると、
「羨望は、自分以外の人が何か望ましいものをわがものとしていて、それを楽しんでいることへの怒りの感情でありーー羨望による衝動は、それを奪い取るか、そこなってしまうことにある。さらに羨望は、ただ一人の人物に対する関係で会って、初期の母親との独占的な関係にまでさかのぼりうるものである。嫉妬は羨望に基づいているが、少なくとも二人の人物との関係を含んだものであり、主に愛情に関係していて、当然、自分のモノだと感じていた愛情が、競争相手に奪い去れたか、あるいは奪い去られる危険があると感じることにある」

ナランホは、エニアタイプ4を「羨望と抑うつ的・被虐的性格」と形容している。

羨望(envy)という感情は、「何かが欠けているという苦痛を伴う感覚と、欠けていると感じられるものへの切望を含んでいる。主体の外になる何かを良いものと感じ、それを取り入れようとする状態である。羨望は幼児期の欲求不満や欠乏感の反動として理解できるが、同時にそれは心理的に自己への欲求不満の要素を備えている。」

エニアタイプ4は欲求不満を抱えるタイプなのである。

だから、私たちはとらわれのエニアタイプ4から醸し出される欲求不満の香りを受け取ることになるのだ。

タイプ3は理想化した自分(自己イメージ)に同一化している。そして、他者からは、その自己イメージをサポートしてもらいたい。その自己イメージがサポートされるように、無意識のうちに他者を操る。

タイプ4は理想像に合致しない心的部分に同一化し、得られないものを得ようともがいている。

「人を操る」=対人操作に関しては、タイプ2のところでもう一度触れたい。

私たちは、どのようなタイプであれ、多かれ少なかれ、無意識の対人操作を行っている。そのタイプが持つ、自己イメージを他者にサポートしてもらいたいというのは、タイプ3や2に限らず、どのタイプにもある。

ナランホによると、エニアタイプ4は、ユングの心理的タイプにもはっきりそれと合致するタイプがない。 ナランホは内向的感情タイプの分類にそのタイプの特性を見るが、リソは内向的直感タイプに分類している。

しかし、ユングが内向的感情タイプについて述べることは、タイプ4に断片的にしか合致しない。リソの内向的直感タイプというのも、エニアタイプ4に完全に合致するとは思えない。

タイプ4においては、親しさが軽蔑をはぐくむ。手の届くものは手の届かないものほど望ましくないものになってしまう。

SNSで友人知人のアクティビティを閲覧し、その人の楽しそうな交友関係、仕事で活躍している様子、幸せそうな家族とのひと時などを目の当たりにし、それを喜ぶどころか、なんとなく面白くない、どころか、落ち込んでしまう人もいるという。ここに妬みのメカニズムが発症している。

エニアタイプ4に限らず、「妬み」は私たちの心の中に湿った情念をたきつける。とりわけ、囚われのエニアタイプ4は、その情念と一体化して悶々とすることになるのだろう。

はるか手のとどかないところにあるものには、「妬み」は生じない。それはただの「憧れ」となる。「妬み」が危険なのは、身近な人間関係において、この情念が発動されることにある。

たとえば、友人同士、母と娘、職場の同僚、部下・・・。

サタンは神を妬んだという。なぜ、「妬み」なのか。・・・自ら神のようになりたかった。

あなたが妬む相手は、あなたがそのようなものになりたいということなのか。

とらわれのエニアタイプ3は、自らの内面と触れ合わない。タイプ3はタイプ2、タイプ4と同じく感情センターのタイプである。 自らのうちにある真の感情と触れ合わない。そこには恐れがある。

エニアタイプ3においては、いくらか異なる情念のメカニズムが発症する。彼(彼女)には競争意識が生じる。自分が勝利を得るために、人の注目を浴びるために、利用できるものならどんなものでも利用する。私はこれだけの業績を成し遂げた、このようなステータスのある人々と付き合っている・・・。

空虚な自分。中身のない自分。その自分を隠すため、外見を覆う。虚栄。そして、自分を欺く。欺瞞。

私自身、妬みと虚栄とどっちが強いだろうかと考えると、内面にはじめっとして暗いものがよどんでいるような気がして、それはおそらく妬みだろうと思う。 

タイプ3的価値観から、再び、ぶどう園の労働者の譬えにもどって

  • 2015.01.22 Thursday
  • 14:55
北米でエニアグラムが一般に広がった過程で、それは心理学的なツールとしてて用いられるようにり、本来、エニアグラムが指し示している人間の精神(霊性)の広がりが見失われた(Sandra Maitri)。その精神の広がりに向かう。

※sriritus(ラテン語):今日では宗教的体験は「霊性」という概念に包括されることが多いが、この言い方もまた原始キリスト教のこの用語に接続するものなのである。今日、「霊性」の表現がかくも有名になったわけは、ただ、この言い方をすれば伝統的な教会的敬虔から距離がとれるという理由一つに過ぎない。「教会」が文化の意味論のマーケットでは敗者であるのに対して、「霊性」は勝利者なのである。(ゲルト・タイセン)

pneuma(ギリシャ語) sriritus(ラテン語 )

スピリチュアル(霊性的)な自己変容への道を指し示すものとしてエニアグラムを理解しようとする観点から、先日のエニアタイプ3のところで引用した聖書の中の『ぶどう園の労働者の譬え』(マタイ20:1−16)を引用する。

ブドウ園で働くために日雇い労働者が、それぞれ違った時間に雇われる。日暮れにその日の賃金の支払いを受けるのだが、最初に仕事の終わる一時間前に働いたものに1デナリオン(一日生活できるぐらいの賃金)が支払われ、他の者にも同一の賃金が支払われる。長い時間働いた者はもっともらえると思っていただけに不満を口にする。

しかし、雇い主は朝から働いた者には 1デナリオンという約束をしていたので不正を働いたわけではない。 私たちの考えは、同じ労働で長く働いた者が多くもらえるのが当然と考えるだろう。でないと不幸へに感じる。 しかし、イエスの譬えはそれと違った見方をするようにさしむける。 以下、ゲルト・タイセンの解釈を引用しよう。

「ぶどう園の持ち主は業績によってではなく、善意と必要に応じて報酬を払う。彼には、より少なくしかもっていない者たちにより多く与えるという自由がある。しかも、そうすることで彼は他の者たちから何かを奪い取るというわけではない。このことに我慢がならない者はだれであれ、妬んでいるのであり、「悪しき目」をしているのである。ぶどう園の持ち主の行動は経済的な労使関係の論理には矛盾する。しかし、家族の中での分配の論理には矛盾しない。家族の中では、全員がそれぞれの業績とは無関係に同じ分配に与る。ぶどう園の持ち主は家族の中の父親のように振る舞っているのである。」(『原始キリスト教の心理学』)

タイプ3的な価値観(にかぎらず、私たちはほとんどそう考えるだろう)では、人の価値がその人物が達成したものによって測られる。同じ人間でも、より価値のある人間とそうでない人間が存在することになる。その指標は自らにも当てはめられるので、自らが価値ある人間であろうとして、この社会で「価値あるとされる」ものにならなければならない。

タイプ3の価値観を心理的なレベルで見れば、それは優れた業績を上げる前向きな行動力として評価されるかもしれない。けれども、スピリチュアルな次元においてみれば、これはより価値のある人間とそうでない人間がいるということになり、人間の尊厳ということをどうとらえるかという問題に関わってくる。(これはかなり婉曲的な表現である。人の価値を測ることは、それは傲慢な罪であろう)

人は人である、そのことによって、いかなる人間も人として、価値ある者 であり、人間としての尊厳を保たれなければならない。 原始キリスト教の世界で、イエスが社会の底辺層に位置する人々の友として振る舞ったのは、そしてそれによって人々に何らかの癒しがもたらされたというのは、イエスがその人々の友となることで、人としての尊厳を回復したからにほかならないのではないだろうか。

エニアタイプ3 ステータスシーカー

  • 2015.01.21 Wednesday
  • 01:34
03:ステータスシーカー

「成功」という言葉がカギになる。目標達成志向が強く、成功を求める。

 ユングの分類でいえば外向型。エニアタイプではタイプ3と呼ばれる。

 理想化された自己像への愛。

「SNSで自分盛り」・・・ソーシャルネットワークサービスの発達で、自己の活動を写真つきで、しかもリアルタイムにアップできる。「自分盛り」とは、自分を実際以上にカッコよく見せること。現代のとらわれのタイプ3には、自己イメージをたっぷり盛り込み、自分をひけらかすためのかっこうのツールである。

 しかし、そのアクティビティに“内実”がなければ、ひけらかしの意図を見抜かれ、「自分盛り」と言われてしまうのだ。

 エーリッヒ・フロムによる、指向性の問題。市場指向性。近代史上の発展に伴うもの。人格市場において自分をどのように演出するか。

 成功するためのモデル像を見つける。雑誌、新聞、テレビ、映画、ビジネスの成功者。ポスター、広告。

市場型の人間は、外向的なタイプであり、外界に適応するために思考を使う。
が、それは論理的な思考と言うよりも、合理的な思考である。論理的思考を「思考」と言うならば、市場型の人間の思考は論理的というよりもイメージコンシャスである。

本来の思考は、”効率的“ではない。

ち密な思考を構築するならば、論理的矛盾をきたすことは耐えがたいが、イメージコンシャスなものは、必ずしも論理の整合性にこだわる必要はない。そこにはいってくるのは、ごまかし。とらわれの要素である。ごまかしということ。

 図解で見せるが、論理的に込み入った説明はできない。説得力はあるが、その人が喋っていることを録音し後で着てみると、目の前で話されていた時ほどのインパクトはなく、中身の軽さが目立つ場合がある。

 タイプ3が本を書くなら、名声のため、売れる本、しかし書くのは自分ではなく、なぜならそれは効率が悪い、ゴーストライターに書いてもらうのが効率がいいと考えるだろう。

 ホーナイでは、自己愛的という。理想化された自己像への愛。賛美する。自信に満ちているように見える。

 賞賛を求める。相手に良い印象を与えなければならない。お世辞、特別扱い、賞賛、お返しを受けられるという予想のもとに行動。

 ユングの心理的類型にはエニアタイプ3の性格学的型は見当たらない。ナランホでは、「よく発達した感覚と思考力を持つ外向タイプ」ということになる。

 「顧客に売りつけるために使う」現実主義者。手段を正当化するために目的を持ち出す。優れた企業家。周囲に人が集まっていれば、自分中心に人が回っている。

 成功を求めて駆り立てられるところには、失敗への恐れがある。自分が無価値であることへの恐れがある。

 仮面を外して、自分の本当の顔を見せたら受け入れてもらえるだろうか。

 カメレオン、模倣。より輝きを増すための努力をする。

 成功へ向けての努力は、富と地位の追求に。合理的、実際的、効率的。自他の活動を組織化。とらわれのエニアタイプ3は、計算高く、目的のために手段を択ばないことも。自分自身だけではなく他者を踏み台にすることも。

 競争心が強い、冷酷、効率よさ、ごまかし、自分を偉く見せる。イメージ操作。社交的な才能。演技。

 自覚的には自己の感情の深いところに触れていないという感覚。

 シェルドンのいわゆる中胚葉型。クレッチマーの闘士型の体型がタイプ3の活動的で精力的な特徴を支えている。

 特にアメリカ文化ではサクセスストーリーがもてはやされる。フロンティア精神に基づき、ビジネスの世界、ハリウッドのショービジネス。富豪になること、アメリカンドリーム。巨万の富を得る。そういう人々が成功者として羨望の的になる。

 政治。経済、アカデミズム、美容、ファッションあらゆる分野で、「成功者」こそが、価値が高い人間とされる。成功を求める、そして同時にそのシンボルであるステータスシンボル。

 ステータスとは何か。目で見てわかる。属する社会、時代の価値観が、それを成功のシンボルだと認める。物質的な価値観である。誰が見ても分かるシンボル。そういったものを手に入れようとする。
 
※ゲームの世界でのステータスとは、ロールプレイングゲーム(RPG)などのキャラクターの状態を表すデータの事。IT分野ではシステムの現在の状態を指す。

 高級乗用車、豪邸、別荘、高級会員制〇〇、高級ブランド、ショップ。高価な宝石。名声、それに伴う経済力、地位。学歴など。

 アメリカ文化がすでにタイプ3的である。

 市場価値と人間的価値が同一視されている。それは他者を値踏みすることにもなるが、自己の価値を「成し遂げたこと」で測ることになる。

 自分自身が値踏みされる。

 自分で自分を値踏みし、より価値のあるものになろうとして成功へと駆り立てられる。

 自分の外にあるものに関心を向け、できるだけ価値あるものを求めるタイプ3が外向型であることは確実である。タイプ3は自らの内面に向かわない。
社会的に価値あるとみなされているものを所有する人間が価値ある人間と言う思い込みがある。それがなぜ、思い込みなのか理解できないことすらある。

 タイプ3にとって他の価値観は重視されない。しかも、それはひそかに自分のなかにあるものではだめなのだ。人に認められること、賞賛されることを必要としている。

 ひけらかし

 このタイプは自分自身をひけらかす。いいものとしてひけらかす。魅力的で有能であるという自己イメージがあり、その自己イメージ通りに見られたい。自己主張的なタイプであり、アグレシブでもあるが、あからさまに他人を攻撃することはない。あくまで自分をよく見せたい。心の中で思っていることと、まったく正反対のことでもいえる。

 ウソ、欺瞞。それだけ適応性があるともいえる。

 ひけらかしは人間だけではない。動物でも自分自身をひけらかすことがある。それは発情期の求愛ディスプレイだ。動物ではとりわけオスがメスの気を引くために外見が目立つ色に変わり、またメスの前での独特の行動をとる。

 まさに、市場型人間のひけらかしは、このような求愛ディスプレイにも似て華やかで目立つ。それによって異性のみならず、他者の関心を惹きつけようとする。

 それゆえ、とらわれのエニアタイプ3は加齢による容色の衰えはとりわけ恐ろしい。男性の場合は、それに代わる地位や経済力で補おうとするかもしれないし、女性の場合、なんらかのキャリアを持たなければ、容色の衰えをいかに防ぐかは人生の大問題になるかもしれない。
 化粧品、美容整形は、自己をひけらかすタイプの人々、とりわけ女性を虜にする。それも「セレブご愛用」がよかろう。

 このタイプはイメージコンシャスであるゆえに、イメージを大事にする。誰かとお茶を飲むにも、ファストフード店ではいけない。ホテルのラウンジでなければならない。食事はうどん屋ではいけない。高級感のあるレストランなどでなければならない。うどん屋なら、高級うどん屋か。

 そうすると、行動の一つ一つ散財することにもなる。経済的には見かけより苦しいということが大いにありうる。
 人として成功・達成動機が強いことは「善し」とされている。ベストセラーとなった数々の自己啓発本は、物質的な成功を謳っている。

 ステータスシーカーは人生で成功を目指し、それに駆り立てられて行動する。よく、自分を機械か何かのように譬える。車もガソリンを入れなければ動かない。メンテナンスが必要だと。

 エニアタイプ3のとらわれは、荒野で40日間の断食をおこなったイエスに対するサタンの誘惑の言葉のなかにある。イエスはサタンを退ける。

 目標達成志向そのものは個人の仕事や物事を行う動機として作用する。スポーツ、芸能、学術すべての世界で、目標達成志向は努力の源になりうる。周りの者を鼓舞することにもなる。

 ステータスシーカーは“一流”を目指す。

 エニアタイプ3は、「ほめられたい」という気持ちが強い。エニアタイプ4のようなメランコリックなタイプの場合、自分が特別扱いされることを望むが、それは自分の感性にうまくフィットするものでなければ受け入れられない。
 ステータスシーカーの場合は、「ほめられる」のはもっとあからさまでなければならない。特別扱いは、「自分がいちばん」でなければならない。自分が達成したこと、外見的魅力、持ち物その他についてほめられること。

 ほめられたい、承認の欲求。子供のころにさかのぼれば、勉強、稽古事、スポーツ、そのために生徒会長に応募する、一流大学を受験する。
 それは誰にでもわかりやすい、目に見える“成功”でなければならない。

 子供がほめられたいのは母親である。母親的な存在から、ほめられることを期待している。エニアタイプ3の「承認欲求」は、それはつまり、愛されたいことの変形である。

 ステータスシーカーの内面には、母親の愛を勝ち取りたいという欲求がある。ほめられるようなことをすれば愛される。愛されるためにはほめられるようなことをしなければならない。いい成績を取ればほめられる。賞をとればほめられる。スポーツで一番になればほめられる。他の子より抜きんでていれば、愛されると錯覚する。

 その欲求が大人になると、成功に駆り立てられる。その深層には「愛さたい」欲求がある。しかし、成功そのものは、愛ではない。いくら成功し、賞賛されても、愛が得られたという確信は持てない。ゆえに、とらわれのエニアタイプ3は、無意識のうちにさらなる成功へと駆り立てられる。成功を勝ち得ていない自分は愛されないのではないか、価値のない人間なのではないかという恐れがある。

 ステータスシーカーはそれゆえ、十分に満足することがなく、際限なく成功へと駆り立てられることになる。
不思議なことに、周りから地位・経済力もあり、社会的には成功している人のうちに数えられる人の中に、学歴詐称が発覚したり、不名誉なことが発覚することがある。自己の価値に対する誤った思い込みととらわれがある。

 とらわれのエニアタイプ3は、自らをも欺く。自己の価値についての、誤った思い込みがある。その内面は空虚だ。

 タイプ3は感情センターのタイプだが、自分たちが「適切な感情」とみなすものだけが表現される。

 タイプ3の内的空虚。ナランホに従えば、タイプ3、またタイプ9が抱えている問題は、精神病理というよりも「霊的な」病理である。内的なものとの真の霊的体験の喪失。

 自らの内部を見るために立ち止まることができない。

 市場型のイメージコンシャスな人々は、イエスと金持の青年の話を思い出させる。

 青年は自らの所有物を捨てることはできなかった。


<解放への道>

 必要になってくるのは自分自身に向き合うワーク。

 人からの賞賛をひきだすことではない。

 自己の内面に取り組む。
  
  例えば何かに「感動した」というなら、感動の中身を自分のことばで語れ。
 自分が本当に感じていることを語ってみる。

 しかし、とらわれのタイプ3は、自分の言葉で自分の感動を語ったら、それがほんとうに
周りからの賞賛をえることのできる内容かどうか、自信が持てないのではないだろうか。

 だから、ベストセラー、○○賞、賞賛されるべき○○の人物の○○という一般に
わかりやすいコードを用いる。しかし、それはかえって内容の薄っぺらさを暴露してしまう。

 自分の胸のうちの真実に触れることをおそれてはならない。
 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆ブドウ園の労働者の譬え マタイ20章

ブドウ園の雇い人がブドウ園で働く日雇い労働者を集める市場(アゴラー)に行き、自分のブドウ園で働かないかと労働者を雇う。夜明けと同時に行って、1日働けば、1デナリオンを支払うと。

1デナリオンは、労働者とその家族がようやく一日の生活を維持できる程度の価値。

ついで、午前9時ごろ、さらに正午と午後3時に出かけて、労働者を雇う。。この雇い主が1デナリオンの報酬を明確に約束したのは最初の労働者に対してだけ。それなり、賃金について何もいっていない。

最後に午5時ごろにいって、まだ市場に立っている者がいることに気が付いた。雇い主は聞く。なぜ君たちはここで一日中、何もしないで立っているのか」と。

「誰も俺たちを雇ってはくれないから」

市場は失業者であふれていた。彼らは、日雇い労働者として生活している。仕事にありついた者はまだ人間扱いされていたが、仕事にあぶれたものは、極貧者として、特に当時の宗教的エリートであったファリサイ派の人々から、「罪人」のカテゴリーに入れられた。彼らは好んで「罪人」になったのではない。誰も雇ってくれないから「罪人」にされた。

午後6時頃、労働者に賃金が配られた。賃金はその日のうちに、日没前にしはらわかなければならないことになっていたのだそうだ。当時の人たちにはなじみの習慣。

最後の者から順に支払われた。午後5時に雇われた者たちが1デナリオンずつもらった。

1時間しか働かなかったものに1デナリオン支払われるなら、もっと多くもらえるだろうと。早くから働いていた者は思っただろう。

しかし、結局1デナリオンしかもらえなかった。

そこで、長い時間働いた労働者が異議申し立てをする。憤懣を口にする。最初にやとわれた労働者たちだ。

夕方まで怠惰に過ごしてきた者たちには思いがけない寛大な処遇。最初に働いた者にそういう仕打ちをする雇い主に憤激する。

だが、雇い主の返事は「自分は不正を行ってはいない」と。最初に雇われた者には、1デナリオンの約束をしたではないか。

雇人はいう。

「わたしが好きなようにするのがいけないのか」

最初から働いた者は、寛大な処遇を受けた者たちと比較して、自分たちが受け取る報酬をもっと吊り上げたい。

しかし、もらったのは1デナリオン。もし、そういうことがなかったら、受け取った1デナリオンで満足し家路についたはず。

異議申し立てをした彼らに襲いかかった危機は、自己認識の危機。

「きみの目が邪(よこしま)なのは、私が寛大だからか」

業績主義の論理が覆い尽くす人間世界。それとは独立に働く善意や寛大さ。

雇人はいう。

「自分のものを自分のしたいようにするのは当たり前ではないか」

◆参考資料:『イエスの七つの譬えー開かれた地平』川島重成 三陸書房

メランコリックな人? エニアタイプ4 

  • 2015.01.14 Wednesday
  • 20:51
04:メランコリックなタイプ  

完全主義者はときに憂鬱に沈み込む。

自責の念にかられ、自己嫌悪の状態になるのかもしれない。

しかし、完全主義者のメランコリーは、創造的メランコリーとは別物だろう。

憂鬱な面持ちをしたタイプに移ろう。

メランコリックなタイプ。

多くの人が経験していることだと思うが、思春期の頃の内面は不安定だ。

些細なことで感情が揺れ動く。 ふさぎ込んだと思ったら、ちょっとのことで感動する。
メランコリックなタイプを、思春期の自我を持ち越したタイプと言ってもいいだろう。

十八世紀ドイツでシュトルムウントドランク(Strum und Drang)という文学運動が起こった。十八世紀後半に見られた文学運動で、理性に対する感情の優位を主張。 ゲーテの『若きウエルテルの悩み』は、その代表作とされる。

日本語では「疾風怒涛」と訳され、大荒れのイメージだが、言葉の意味は嵐と焦土ということで、内面に吹き荒れる感情の嵐とでもいおうか。
 
思春期から青年期にかけて、[自分は誰?]という自分への問がもたげることがある。「自分探し」というのが始まる。自分は他の人と違っているのではないだろうか。自己の内面に関心が向かう。内向的になりやすい。

ユングの内向・外向タイプに話を戻すと、この時期、内向的になる人は多いだろう。
それで、自分は内向型だと思う。(わたしだって思った)

いかに外向的なタイプであろうと、ときに内向的になることもある。100パーセント外向的な人間などいない。誰だって、自分のなかにひきこもるときがある。
 
ここで取り上げるタイプは自己の内面の感情に関心が向かう。感情は常に揺れ動き、自分自身がその波に翻弄される。  このタイプにとっては自分がどう感じているかに関心が向かい、そのことに敏感である。

自分自身に関心を向ければ向けるほど、他者との違いが気になってくる。のみならず、自分は他の人と違っているのではという意識を強く持つようになる。  

自分=感情ととらえやすく、そのときどきの感情に振り回されて、自分で自分のことがよくわからなくなることがある。  このタイプの男女は周りの人間から、「気分屋」とよばれているかもしれない。とりわけ、身近な家族や友人、恋人ならわかりやすいだろう。    

完璧主義者が完全さの見取り図を持ち、その欠けたところに意識が向かいやすいのに対し、メランコリックなタイプの意識は過去へと向かいやすい。  

過去をあたかも現在のように思い出す。だが、その過去は感情のトーンをともなった脚色をされ、一つの物語となって甦ってくる。  

このタイプの人にとって、過ぎ去った日々はいま現在よりも色鮮やかに見えるかもしれない。あるいは過去はセピア色の思い出か。過去は何らかのストーリー性を帯びてよみがえってくる。  

過去は美化される。過ぎ去った日々はもはやは手の届かないところにあるからこそ美しい。 過去への憧憬、郷愁。  過去の物語は繰り返し、繰り返し語られる。  

しかし、それは真実の物語だろうか・・・。  

手の届かないもの、失われしもの、移ろいゆくものこそ、美しい。 人生そのものが、移ろいやすい。別れや死に彩られている。  エニアタイプ4はしばしば芸術家というニックネームで呼ばれてきた。 しかし、とらわれのなかでは、タイプ4の特性としてのメランコリーは必ずしも創造性とつながっていない。  

このタイプに見られる独特の表現は、きわめて陳腐なものになることもあるのであり、どのタイプにおいてもいえることだが、性格と才能はイコールではない。  

ところで、「自分は特別である」という思い込みは、他者を陳腐なものとする。俗物とみなす。  

エニアタイプ4は、いくらか憂鬱そうな人。いくらか憂鬱な気分のほうが自分らしいと感じるだろう。  

ある種の気難しさがあり、周りの人間に自分の機嫌を取らせようとする。たとえば、皆が楽しそうにしていれば、自分はため息をついてみる。誰かが、それを見て、「どうしたの?」と慰めてくれるかもしれない。

<真に創造的となりうるために>  

ユングは言う「夢想のなかにひそむ価値を引き出すためには夢想を発展させなければならない」 「よいアイデアや創造的行為は、すべて想像に由来しており、しかも幼児的夢想と呼ばれているものに起源をもつ。夢想という力動的な原理は遊び」「素材のままではまったく利用できない」(タイプ論)

エニアタイプ4においては、タイプ1が統合の方向と呼ばれる。タイプ1のもつ強みは、課題中心性である。 すなわち、なすべきことをなす。

完全主義者 エニアタイプ1 性格のとらわれ

  • 2015.01.14 Wednesday
  • 12:01
01:完全主義者

ここでは性格の囚われに焦点を当てる。

一番に取り上げるのがこのタイプになるのは、このタイプの価値観や生活習慣は社会的な基盤に応じるものであり、その性格の持つとらわれが適応を促すことになると思うからだ。

完全主義者は、よく誤字脱字が目につき、いったんそれに気づいたら直さずにはいられないかもしれない。
ごみ収集のルールにうるさく近隣の住人のいい加減さにいらだちながら、達筆の張り紙をするかもしれない。
時間を守り、約束は守るべきだという信念を持っていることだろう。

「約束を守る」のは望ましいこととされる。

しかし、人の心のホンネについて聞いてみると、
「必ずしも守るとは限らない」「約束は守れないかもしれないのでしたくない」という人もいる。
他人が約束を破ったことについて寛容な人もいる。

完全主義者の特徴の一つは“非寛容”であるという点だ。

完璧主義者の頭の中には、この世界の完璧な見取り図がある。
それはあるべきものがあるべき場所に位置しているモノクロ写真のようなものかもしれない。
そして、その見取り図のようにこの世界があるべきだと感じている。

完全主義者のこだわりは、人によって違い、さまざまな面に表れる。
皆同じであるわけではない。本人の生育環境や体力・知的レベルその他によって違ってくるだろう。

それこそ、靴がそろっていない、家の中がきちんとしていない、家事全般に関することに完璧を求める人もいれば、理想の社会をめざす完璧主義者もいよう。

環境・教育・男女平等、世界平和について。完全主義者の中には社会を改革していきたいという動機に駆られる人もいるかもしれない。

それは社会的な貢献となることもあるだろう。しかし、本書のテーマはあくまで性格のもつ・・・についてであって、それが社会的にどの・・・

完全主義者の内面には“怒り”がある。その怒りを完全主義者は抑圧しようとするが、怒りと言うものは腹から湧き上るものであり、生理的に立ち上がってくるものなので、それを完全に抑圧するということはできない。「腹が立つ」という日本語は“怒り”について言いえて妙だ。内臓がむかむかするのだ。

「受け入れがたい」ということを身体が表現する。しかし、自我はその身体の表現を抑圧しようとするため、心身は堅く緊張する。

怒りを抑えようとしている完全主義者からは、いわゆる「ぴりぴり」とした雰囲気が生まれる。

完全主義者の几帳面さ、物事へのこだわりは、神経質さをあらわすものと勘違いされるかもしれないが、このタイプは頭脳型の神経質さを持ち合わせてはいない。完全主義者のカテゴリーに入れられるべきは、身体型の人間だ。

人間の精神機能はいわゆる知情意という見方ができる。頭の中の思考によるものが「知」であり、共感能力や自分の気持ちを表現する、人との感情面でのコミュニケーションを図るのが「情」であり、「意」は意志の力である。意思という思いではなく、意志という志を意味する漢字をここで使いたいと思う。

完全主義的傾向の強い人に、自分の体を絵に描いてもらうと、胃腸のあたりが赤く塗られるなど、共通してみられる。「はらわたが煮えくり返る」という言葉があるが、まさにはらわたが熱を帯びるのが、このタイプの人間の怒りであろう。

完全主義者は意志が強い。コツコツと粘り強く物事をやり遂げようとする。完璧を目指すなら、そうする他ないだろう。そこで、「しつこい」という性格が一つの性格特徴として出てくる。

完全主義者は超自我が発達したタイプである。自我と言うのは意識的な部分。超自我は意識を超えた部分であり、それは潜在意識・無意識にまたがっていると考えられる。

超自我が発達しているというのは、意識にまたがる部分に関しては、自分を監視するもう一人の自分のような形で立ち現れる。それは内なる声のようなものかもしれない。

完全主義的傾向の強い人は、「すべき」「すべきでない」という命令と禁止によって縛られている。怒りは「面に表すべきものではない」のであり、「感情的になってはならない」「怒ってはならない」という内なる声のもとに抑圧される。

しかし、先ほど述べたような理由から、それを完全に抑圧することはできないのだ。

腹の中の怒りはそれを抑圧しようとすると、身体的な緊張が生じる。肩こり、腰痛なども実際に起こりうるのだ。完全主義傾向の強い人の体の堅さ、硬そうな感じ、すなわちしなやかさに欠けている。もっとも、舞踏やヨガなどを行っている場合は違ってくるだろう。

ユングの外向・内向タイプでいえば、完全主義者は外向的思考タイプの記述に近いものがある。
関心は外の世界に向かい、感情を交えずに合理的な判断を下そうとする。

しかしながら、このタイプの思考は論理的なプロセスをたどる頭脳型の思考ではない。

ここで、思考というものの本質についてとらえておきたい。
思考とは論理的推論のプロセスであり、思考の枠組みの中に構成されるのが概念である。
純粋な思考型のタイプは、このことについては、別のタイプのところで述べるが、抽象化を行う。

完全主義者は抽象的なことを考えているのではない。関心は外の世界の事象や人に向かっている。
社会の他者との関係に。しかし、完全主義者は答えるだろう。自分はこう考えていると。

おそらく、それは彼(彼女)の意見なのだ。意見は思考ではない。
論理的な推論のプロセスをたどって出てきたものではなく、それは経験に基づく信念だ。判断でもある。

こうすべきという自論があり、それは主義主張の形をとるだろう。「
意見を述べてください」と言えば、ほとんど考える間もなく、自らの内にあるものを語れるだろう。
意見や信念、主義主張であり、それは過去の経験に基づくものだ。

考えて言葉を発するには、思考のプロセスをたどるという作業を経なければならないため、時間がかかる。

思考は抽象化を行い、言語は具体的なものから離れていくが、完全主義者の言葉は抽象化へとは向かわない。
いったい、抽象的な世界に完璧な図というものが描けるだろうか?

それゆえ、考える人の発言は即答とはなりえないのだ。

思考は論理のプロセスをたどるのであり、仮定によって推論される道筋が違ってくるということがありうる。

純粋な思考タイプの思考は、フレキシブルであるともいえるのだ。目的地を固定せず、揺れ動く食指のようでもある。

意見・信念を持つタイプの人間の性格特徴としては、「押しつけがましさ」「頑固さ」があげられる。
自分は変わらないが、他者を変えようとする。

完全主義者の主義主張、信念を変えるのは並大抵のことではない。

間違ってはならないのは、完全主義者があらゆることにおいて、完ぺきであろうとしているのではないということだ。自我の意識の及ぶ範囲、自分が見たい部分。本人が関心を向けているところに完全主義の本領が発揮される。


ある主婦の方はイライラするほど台所のシンクやドアノブに磨きをかけたくなるのだそうだ。片づけが始まり、ピカピカに磨き上げる。

そういうところからすると、完全主義者の機動力のもとには欲求不満の匂いがする。

こういった人はハウスクリーニングや家事代行の仕事で能力を発揮するだろう。本人がそれを仕事にしたいかどうかはまた別問題であるが。

何かが満たされていない。欲求不満を解消するために自分でそれを満たそうとする。祖も満たそうとするところが何なのか。

誤字脱字を直さずにはいられないという人がいる。他人の言い間違いにも黙ってはいられない。訂正せずにはいられないし、バッグのチャックが開いていたら閉めずにはいられない。自分の見取り図の中で完ぺきではないところを見ると我慢がならなくなるのだ。

エニアグラムでタイプ1と呼ばれるのがこの完全主義者にあたるが、改革者と名付けている人もいる。その呼び名は物事をより良き方向に改善していきたいという欲求を表すものだが、しかし改革者は革新的な人間ではない。

完璧な見取り図と言うものは固定している。そこからは動かないのであり、フレキシビリティに欠けている。

完全主義者は保守的であると言えないだろうか。斬新なアイデアはこのタイプの人からは出にくいと言わざるを得ない。

完全主義者にはある種の繊細さは欠けているからである。

クレッチマーの粘着気質に当たるのであり、爆発性の怒りを持つ。分裂気質ではない。

完全主義者の頭の中にある超自我がくだす命令や禁止は、他者にもあてはめられる。

このタイプの人は、他者を自らが裁判官のように裁くことにつながる。
しかし、自分は裁かれないものという認識でいるのだから、その目線は非常に高いところにある。

完全主義者の思い上がりについては、聖書の中のパリサイ派、またパリサイ人として描写される人々の内に見て取れる。
自らは律法を守り、神の前に正しい行いをしている。自らを義とする者であるが、イエスはそのパリサイ人に強い批判の言葉を向ける。

一般社会では完全主義者の正しさは、世の中の正しさとして通用することが多い。
彼らはその時代、その国の規範にしがたい、それが正しいと思われない時には改革を目指す。

彼らにとって悪は許しては置けないものとなる。

先にモノクロ写真のような見取り図と言ったが、完全主義者の正義感は正しいか正しくないかの二者択一であり、そこにグレーゾーンが存在しない。

自分は何が正しく、何が間違っているか、善悪正邪の観念が発達し、自分はそれを知っているという感覚が、アプリオリにこのタイプのなかにはある。

それゆえ、タイプ論をスピリチュアルな次元にまで引き上げれば、このタイプの人の本質には、本来そういった正義についての知がやどっているはずだということになる。

彼らの正しさとは倫理道徳的な規範に従っていること。おおむねその時代のその社会の道徳規範に一致する。

イエスが厳しく言い放つ、パリサイ人の行いはたしかに当時の社会において、神に仕え神の前で正しい行いとみなされていた。

しかし、イエスは彼らの内面にあるものについて糾弾するのだ。

パリサイ人は、自分たちが罪人のようではないことに感謝する。当時、ローマの手先となり、同胞から税金を取り立てた取税人。もっとも忌み嫌われる存在。貧しさゆえに、そのような仕事に就いた者もいた。そのような者でないことに感謝するのだが、イエスはときには独特の譬えを用いて、語る。

神は本来愛と正義の神である。神の愛が働けば、弱く罪深き人間を救済する。しかし、神は同時に正義の神であれば、罪を犯した者を罰する。そのはざまで苦しむのは神自身であり、新約聖書の中の神は、愛の神となる。

完全主義者は愛なき正義をとなえるのか?

完全主義者の中には、幼いころから「これはいいこと」「これはいけないこと」の区別があり、自分を律してきたところがある。
そのため、本来の感情に目を向けず、感情は未熟なままに取り残され、他者の感情を受け止めることも、未熟なままの感情機能においては難しくなっている。どこかに、感情的な鈍さがあり、共感能力に乏しい面がある。

完全主義者の内面には、幾つになっても我慢をづづける子供がいる。たとえば、祭りの日に、子供たちが大勢繰り出し、露店の駄菓子を買い求めているのを見ている完全主義者の子供。彼(カノジョ)なはぜか、「そんなものは買ってはいけない」「食べてはいけない」という親の言いつけをよく守る。おおむね、そういった食べ物は黴菌がいっぱいついているかもしれず、不潔であり、着色料や甘味料に使われているものも健康にはよくない。とりわけ歯の健康には善くないと教えられている。

だから、買い食いをしている子を見ると、チョコレートコーティングしたバナナや真っ赤なリンゴ飴、焼きそばやお好み焼きなど。あんなものは食べてはいけないと。

でも、どうだろう、彼の中には食べてみたいという欲求がある。その欲求を懸命に抑えているのだ。

だから、他の子どもたちが、毒々しく着色された飴やいつの油脂かわからないアブラであげられた揚げ物類、アブラ菓子を羨望の目で見ている。

大人になってからも、関平主義者の、自由に生きる、いささが奔放な人を見るまなざしに、これと同じ羨望が宿っているのを見て取ることができるだろう。しかし、彼はその羨望すらも抑圧する。

欲望に打ち勝つことは、完全主義者にとって自らを律することになり、それは人としての正しい行いと受け止められる。

完全主義者のある種大人びた振る舞いの中に、ときおりこういった子供っぽい反応を見ることがある。

羨望とは自分はもっていないよいものを他者が持っている、経験していることをうらやむこと。

メラニー・クラインの『羨望と嫉妬』から引用する。

羨望という感情については別のタイプのところで、再び触れてみたいと思う。

「自分は正しい」という信念はいったいどこからくるのだろうか。

完全主義者はまるで、アプリオリに「自分は正しい」者として存在しているようだ。
しかしそれは別の言葉でいえば、性格の「思い込み」なのである。

自らの欲求に従うことができず、欲求を抑えることにより「ねばならない」「してはならない」の声に従うと、それによって抑えられた欲求は圧がまし、欲求不満が内面で高まっていく。

ある時、マグマのようにその欲求不満が抑えきれなくなって吹き出すことはないのだろうか。爆発的な怒りを見せることはないわけではない。

しかし、それよりもむしろ、先にあげた生理的反応と言うところから、抑圧しきれないものが岩の裂け目から吹き出す火山ガスのように、間欠的に立ち上る。

そこにこのタイプの人の不機嫌があり、ときに逆鱗に触れたような怒りに出会わなければならない羽目になる。

欲求不満は講じると、抑うつ的な気分を生む。完全主義者は自らにおいても完全であることを要求する。

しかし、完全な人間になることは不可能だ。彼が思うような完全さには至らない。

そこで、自らの至らなさに目が行くことになる。「自己批判」はこういった完全主義的傾向に人に生み出された言葉なのかもしれない。

内なる自分に向けて批判の目を向けることになる。自分で自分を批判し、ときに自分に対しても「許せない」と言う気持ちになる。

「許す」「許さない」と言うのもこのタイプにとって大きな課題となるものだ。人は許したり、許されなかったりするものだという前提に立っている。

自己批判から、欲求不満へ、許せない自分。内面に向けて圧がかかると、それは至らなかった自分に対する「自責の念」となり、自分を責め、後悔が始まる。「あのとき、ああしていたらい」「こうしていたら」と反省は過去へとさかのぼる。

過去はもとより取り戻せないものだ。が、その過去へと向かう。そこに、抑うつの根がある。完全主義者は抑うつ的になりうる。

そして、完全主義者は自らを次に述べる別のタイプと自認する場合がある。次の章で取り上げるタイプとは、メランコリックな気分にとらわれやすいタイプである。

しかし、そのタイプに移る前に、もう一つ触れておきたいことがある。

完全主義者の対人関係の面での特徴について。

とりわけ、その困難な部分についてだが、完全主義者は、対人関係においても欲求不満を抱え込みやすい。他者は完璧な人間ではありえず、たとえ愛する人であっても、欠点が目についてしまう。

大体において、完ぺき主義者は物事の欠けた部分に目が生きやすいわけであるから、周りの人間に対しても同様な見方をしてしまっている。

その傾向は、二つの特徴となって現れる。

まず、このタイプの人は他人をほめない。
ある男性は「人は褒めるとつけあがる」「調子に乗る」と言っていた。

自分の妻に対しても、友人が彼女のことをほめてあげればいいのにと言った時に、そういう答えを返したのだが、この男性の父親もまた完全主義者であった。

おそらくは、父親がつねに息子に対して言ってきたことを、彼も受け継いだろうだろう。
その後、彼ら夫婦に子供ができたかどうかは知らないが、この男性が父親になった場合、とりわけ息子であったなら、ほめるということをしないのだろう。

ほめられたからと言って、調子に乗る人間ばかりではなかろうに、彼の中ではそういう信念が育ってきた。

このタイプの人を他人がほめたらどうだろうか。「そんなことでほめられてもぜんぜん嬉しくないですよ」というかもしれない。

ほめないだけなら、対人関係はそれほどまずくはならないかもしれない。

このタイプの人の中には、どんなことでも言い合えるのが友人だと思っていることがあり、耳に痛いことも言い合えるのが友人だと。

より問題が生じるのは、人との関わり方で文句を言いながら人に近づいていくというところだ。

人との関わり方において、ネガティブなことを表現する。そのこと自体が問題なのではなく、自分自身が常に他者との関係において、完全ならざる他者に向かって、他者の至らないところを指摘するようなことをする。

自分自身が欲求不満を感じていると、その欲求不満を他者に植え付けることになる。

肯定的な文脈で他者と関わり、そこに橋渡しをしておいてから、人に注意をしたりクレームをつけるのではなく、初めから注意し、クレームをつけると言ったやり方をする。

たとえば、会社で、○○さん、と呼ぶとすぐ、そこ散らかっているから、片づけといて。社員食堂のおばさんに、こんにちはと声をかけたすぐに、きのうのあのメニューは善くなかったよとはじまるような。

とりわけ、几帳面な完全主義者は(完全主義者はたいてい几帳面だ)が、何にもっともこだわっているかによって、そのエネルギーがどこに欠けられるかは違ってくる。

たとえば、玄関先で靴を揃える。自分は常にそれをやってきた。他人が脱いだままの靴を見るときになる。

そして、揃えずにはいられない。すぐにやってしまう。靴を脱いだら、このように並べておくべきだというのがあり、そうすることに例外は許されない。

それが習い性となり、他人が脱いだ靴までつい、揃えてしまう。

それだけならいいが、直接注意をすることになる。自分のルールを他人にも押し付ける。

靴を揃えるようなことであれば、マナーの部分に属するので、脱ぎ散らかしていた人間は自分の躾の悪さを感じ、言われるままに直すかもしれない。

完璧主義者の日常生活でのこだわりは、部屋の中をきれいにする、鍵は置くべき場所に置く、ドアは開けたらきちんと閉めるといったことであれば、生活の基本であり、見習うべき要素を備えている。しかし、それがゆきすぎると、周りは辛くなってくるだろう。

髪の毛一本落ちていることに耐えられない夫であれば、妻は同様に完璧主義でなければ家事が苦痛以外の何物でもなくなるかもしれない。妻が完璧主義であれば、家の中はきれいになっていても、くつろげない雰囲気が生まれるかもしれない。

美人で完ぺき主義の妻を持つ男性が、息抜きのために外で比較的自由な交際をする女性と遊んでいたということもある。

どこまでそのことにこだわるか。程度の問題がある。

自分自身のこだわりからみて、「至らない」人間を、このタイプの人はたんに「至らない」とみなすだけではなく、人格的な欠点とみなすようなところがある。人格の欠陥でもあるかのようにみなすところに、このタイプの尊大さ、傲慢さが見て取れる。

完全主義者は場の雰囲気を緊張へと導く。

みながリラックスしてわきあいあいとしていたミーティングルームに、このタイプの上司が現れると空気がすっと凍りついたようになるということがある。

とりわけ、上下関係があり、このタイプが上司、教官、指導者であるとき、他のタイプにとっては非常にきついものとなる。ピリピリした雰囲気になる。

ここまででもし、あなたが完璧主義の傾向が強いと感じられるなら、対人関係について見直した方がいいかもしれない。あなた自身が無意識のうちにやっていること、あるいはむしろ良かれと思ってやってきたことのうちに、周囲の人間との軋轢や摩擦を生む原因が潜んでいるかもしれない。

あなたの愛する家族や友人、恋人・パートナーが、あなたから離れていく原因を作ったのはあなた自身かもしれない。

あなたは友情を大切にする人であるだろう。しかしもし、あなたが示すほどの友情に答えてくれないとしたらなぜだろう。

古くからの友をあなたは、友情がそこにあると思っているからこそ、口でけなすようなことを言ったり、不満を漏らすようなことを言っているのではないか。

そもそも、人と関わる最初の場面で、文句を言っているのではないか。

ファミレスのウエイトレスがかわいい子で友達になりたい。しかし、あなたが男なら、そのウエイトレスに最初に話しかける言葉が、「このコップ、汚れているから取り替えて」ということかもしれない。文句を言いながら関わろうとするというのはそういうことだ。

不平不満を言いながら、人に近づくと、近づかれた人はどうだろう。もろ手を挙げて歓迎するものだろうか。

むしろ、かすかに眉をひそめ、引き下がろうとするのではないだろうか。近寄られたくない、関わりたくないという思いが相手の胸をかすめるのではないか。あなたが相手と良い関係を結びたいと思っているにもかかわらず。その真意は伝わらない。

家庭で厳格な父親、口うるさい教師、ほめない。ごみの分別にうるさい隣人。完全主義の主婦はごみの分別のために、袋をとめてあるホッチキスが燃えるゴミか燃えないゴミかで悩むかもしれない。そこまできちんと分けなければ気が済まないかもしれない。

このタイプの正義感の強い人は、正義感を表明するときにも欲求不満の様相を抱えている。彼らの訴えはただしかもしれない。いや正しいだろう。それは正論だ。しかし、聞いている者は、こころからその正論に賛成したいと思わない。なぜか。

完璧主義者に当てはまるのが、ミンデルはある本のなかで言及していた女性闘士の例。世界平和を訴えているらしい。言っていることは素晴らしい。すばらしいアジ演説。しかし、教官を持てないのは、彼女の話し方が怒気を含んだものになっているからだ。

筆者が若い頃のことだが、ある結婚式のパーティで。アジアで活躍する若いカメラマンやジャーナリストが多かった。そこで、ある女性が乾杯の音頭をとったのだが、いまこのときにも飢えた人がいてと言い始め、パーティの装いをしていった若い女性の何人から、自分たちが非難されているように聞こえたという感想がもれていた。

完全主義者に難しいこと。それはいまこのときを、人生を楽しむということだ。自分自身がそうであるから、周りの人間も完璧主義者と一緒だとこころから楽しめないかもしれない。

完璧主義者はハートとのつながりを失ってしまう。「ねばならない」「こうあるべき」という基準にとらわれ、自分自身の内面の欲求を抑圧する。そして、感情的になってはならないと思う。それが習慣となって、本当の感情を見ない。他者の感情を受け止めることができない。

完璧主義者の体型は、闘士型だが(ユング、ナランホ?)、あまり太ってはいない。完璧主義者の中には体重のコントロールのために、ダイエットを行う人がいる。それも、カロリーを制限する厳格なダイエットだったりする。しかし、本来、本能的な欲求は人一倍強いタイプだと考えてよい。そこで、「理性」と「本能」の戦いとなり、そのことにばかり執着することにもなりうる。食べてはいけないと思いながら、食欲を抑えられない。抑えるとその反動が来る。タバコなどもそうだ。なかなかやめられない。

完璧主義者の感情はただ腹の中から湧き上る怒り。これはナイーブな感情ではない。怒りは生理的なものである。「腹が立つ」というが、まさに内臓が煮えくり返るような感じで、それはいくら抑制しようとしても、箱根の大涌谷のように、休火山のガスのように、ぶすぶすと立ち上がり、それがイライラとなって表現される。周りの人間は、そのイライラと、怒りを抑えるために、過剰に自己コントロールしようとしているその抑制的に働くエネルギーに影響され、緊張を強いられる。。

私たちの中の完全主義者的側面に焦点を当ててみよう。まじめで、自分は正しいことをし、間違った行いはしない。倫理道徳を守る人間。勤勉で働き者である。

聖書の中に、放蕩息子の譬えがある。

イエスは単に譬えを語るだけではなく、その譬えを生きている。

この譬えは、父親で始まり父親で終わる。

『ある人に息子が二人いた』放蕩息子の話。財産を二人に分ける。弟、すでに父を殺している。
弟は遠い国に旅立った。飢饉 、豚の世話はユダヤ人にとってこれ以上ひどいことはないほど。息子は父のところにあるパンを。「彼は我に返った」
父親が息子のもとへ走り寄る。こういうことはしない。
祝宴の席へ連れて行く。

畑仕事から年長の息子が帰ってくる。兄は父に向かってどなりつける。兄弟と言えない。この兄は、弟よりもはるかにずっと根本的な仕方で父を片付け殺してしまっている。こうあるべき父、自分自身のために作り上げた父、理想像に使えていた。

「娼婦ども」そのようなことは、彼自身の頭の中で描かれた想像にすぎない。

「子よ、お前はいつも私と一緒にいる…」

物語の結末は開かれたまま

◆放蕩息子の譬え

ルカ15章11-32
ある人に二人の息子がいて、年下の方が財産をもらい遠い国に旅立つ。放蕩生活をして財産を使いはたし、大飢饉に見舞われ、困り果ててもどってくる。父のところの雇人になろうと。その息子を父は喜んで迎え、宴会の用意をさせる。しかしそれを見た兄は父親に文句を言う。父は「お前の弟は死んでいたのに生きかえった、失われていたのに見つかったのだよ」と。

もっとも有名な譬えだ。

ルカ15章、この譬えに先だって見失った羊の譬えとなくした銀貨のたとえがある。

前半が年下の息子、後半が年上の息子の話。この譬えの重点は兄のほうにある。

徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスに対して、ファイリサイ人や律法学者が不平を言う。
いなくなった息子に対して年長の息子が不平不満を漏らしている。

年下の息子、大飢饉が追い打ちをかけ、命の危機に見舞われる。異邦人のもとでユダヤ人が毛嫌いする豚の飼育を任され、しかもその豚どもが食べているいなごまめで腹を満たしたいと思うほどに。

なかには弟の方に自分を重ねあわせる人もいるが、そういう人の方が少ない。多くの人が、兄の方に自分を重ねあわせる。放蕩の末に戻ってきた弟が許されないということに、非常に不満が出る。

ここでの父とは神を表すものであり、神の愛の大きさ、寛容を表す。家父長的な父ではなく、母なる愛を含む愛なのである。

完全主義者:子供のころのこと。自分がほめられた記憶がないという。自分がしっかりしなければならなかったと。学校では遅刻や宿題を忘れるということがなく、模範性的であったかもしれない。

このタイプの共感能力のなさ、独特の感情的な鈍さがある。それは自らを律することを心がけ、緊張感が漂っている。心が開放されないからだろう。

では、どうしたら、完ぺき主義者はその内面の苦しみから解放されるのだろうか。人との関係をより良好に築いていることができるのだろうか。あるいは、私たちの内なる完璧主義的傾向は、私たちにどのような苦しみをもたらしているのだろうか。その苦しみから解放されるにはわたしたちはどうすればいいのだろうか?

<解放への道>
完璧主義者のもっとも大きな思い違いは、「自分は正しい」と思っていることだ。自分の基準に照らし合わせて、人や物事や社会全体が「こうあらねばならない」という信念を手放すこと。
 

エニアグラムのルーツ 心理的レベルを超えて

  • 2015.01.14 Wednesday
  • 11:52
以下エニアグラムアソシエイツのHPに掲載した文章に、付け加えた内容がある。

<エニアグラムのルーツ>

20世紀初頭、コーカサス地方の生まれの神秘思想家グルジェフは、中近東からアフリカの奥地のどこかにある修道院、人里離れた修道院のどこかで、この図を見つけたという。エニアグラムと呼ばれるこの図は、グルジェフ以前、いかなる文献にも見出されない。
ときは20世紀初頭、フロイトが無意識の発見をしたころ。20世紀最大の発見は、無意識の領域を発見したことだと言われる。
そのころ、ヨーロッパでは交霊術や催眠術が流行していた。
グルジェフは、人間に可能な進化発展のための知恵を求めて、アフリカ中近東を旅していたのだという。失われた知恵が古代に栄えた、かの地に眠っていると考えたのだ。

グルジェフがヨーロッパ社会にもたらしたエニアグラム図は1960年代になって、南米ボリビア生まれのオスカー・イチャーゾによって、性格分析のツールとなって甦る。イチャーゾの経歴は詳しくわかっていない。グルジェフから学んだという噂もあるが・・・
イチャーゾも神秘思想家であり、当時南米チリで自ら見出したと称する性格分析について教え始めた。当初、イチャーゾはプロトタイプアナルシスと呼んでいたらしい。図はエニアグラムではなくエニアゴンと呼び、これに人間の陥りやすい感情傾向を9つに分裂し配置した。

イチャーゾのエニアゴンは、当時彼のところで学んだ北米の人々に大きなインパクトを与えたらしい。イチャーゾの弟子であった、クラウディオ・ナランホは、現代心理学を学んだ心理学者であり精神医学者であったが、彼はイチャーゾのエニアグラムを北米に持ち帰り、勉強会を始めた。後に広がるパーソナリティシステムとしてのエニアグラムは、おおむねこのナランホのところから広がったとみてよい。

当時、1960年代のアメリカの時代的背景を見てみよう。ベトナム戦争の後遺症・西欧的合理主義の行き詰まり・東洋への関心・変性意識状態への関心・・・。

日本に初めて(公式に)エニアグラムが紹介されたのは、パトリック・オリアリー、ビーシングの『エニアグラム入門』の邦訳が春秋社から、鈴木秀子氏監修で発行されたのが最初。

その初版のあとがきを、トランスパーソナル心理学を日本に紹介した吉福伸逸氏が書いておられる。そこに、エニアグラムが登場する時代的背景が語られている。改訂版も出ているが、そこには吉福氏のあとがきは省略されているのが残念だ。

さて、クラウディオ・ナランホのもとで、エニアグラムを学んだ人々に、カトリックのイエズス会士がいた。そこから、イエズス会の人々の間でエニアグラムが広まっていく。先の本はイエズス会の著者たちによって出版された。

また、ナランホのもとで学んだ人にヘレン・パーマーという人がいる。そして、この人もエニアグラムに関する本を書いている。イチャーゾのエニアグラムは、それ自体現代広まっているエニアグラムのように整理されたものではなかったらしい。1970年代に、個人の自己啓発、対人関係改善のツールとして、北米で急速に広まることになったエニアグラムは、ナランホが現代心理学・精神医学と対応させ、現代人に理解しやすい形で伝えたことに端を発しているのだろう。

さて、カトリックグループの流れをくむエニアグラム研究者・指導者にドン・リチャード・リソがいる。リソはイエズス会出身だが、エニアグラム研究のために生涯をささげることになる。1970年代。

人格類型学、性格類型論としてのエニアグラムが、一般に広く流布することになった端緒は、クラウディオ・ナランホという人物にある。以下の内容は、ナランホの『性格と神経症』出版に寄せてのフランク・バロンと言う人の序文と著者序文より・・・。

ナランホは南米チリ出身の精神医学者で、1962年、フルブライト奨学金を得て、バークリーに行く。イリノイ大学で、レイモンド・B・キャテルから因子分析を学び、人格の諸相に関する研究を行っている。ナランホはコロンビアのアンデスの密林に住むインディオが行っている宗教儀礼についての現地調査に出かけている。コロンビアのインディとの生活の後、サンチアゴの自宅に戻る。類型学的心理学者であり精神科医である。彼は人格と人間のタイプの研究に約20年間没頭する。

彼は人間のタイプに興味を惹かれ、ユングにも惹かれる。性格と神経症の執筆に当たって、ウイリアム・シェルドンの思想と研究に習熟。人間の気質の三つの領域、胎児の最初の細胞の三つの層に由来する身体構造に密接に関連しているというシェルドンの考え方を引用。

また、グルジェフの影響によって、インスピレーションを得ている部分もある。グルジェフはエソテリック・スクール「人間の調和的発展研究所」の創始者。ウスペンスキーというジャーナリストらによって、主に世に伝えられた。

シェルドンの研究が数学的誤りと方法に関して批判され、ナランホは因子分析の研究第一人者英国ハンス・アイゼンク、米国のレイモンド・キャテルの論文を読み漁る。
ゲシュタルト療法の創始者フリッツ・パールの影響を受ける。ナランホの治療法にもっとも大きな影響を与えたのは、ゲシュタルト以前にはホーナイの治療法だった。

1969年 知的探求の旅へ。スーフィーの師、体験重視の指導法。グルジェフの第四の道と呼んだエソテリックキリスト教の研究に没頭していた霊的指導者オスカー・イチャーゾと接触。イチャーゾの指導の下でアリカで長期間隠遁生活を送り、「深い変容」を体験。それは「自然に生じるものとして、この能力を身に着けるようになった」という。ナランホは、アリカで過ごし深い瞑想から得た変容の余韻として、他者の人格構造を見通すことができるようになったのだそうだ。

※クラウディオ・ナランホに関しては、『性格と神経症』(Character and Newrosis:An Integratie View)の内容を基にしています。

・・・・ここからが、このブログで付け加えた内容。

エニアグラムの9タイプは、自我構造を明らかにする。私たちの自我は、意識的な自我(これがわたしという意識にのぼってくるところ)、潜在的な自我(ふだん意識にはのぼってこないが、ときどきいしきにのぼってくる)、無意識的な自我(無意識の層に沈んでいる、ふつう意識に上ってくることはない)の三層があるが、リソ&ハドソンは内意識的な自我から、潜在意識、無意識の層の構造を、超自我との関係で説明する。心理構造の概念を構築。

超自我の問題は、「内なる批判者」として、それがどういうものであるかに焦点をあてることによって、変容へのワークにつながっていく。


昨年から、27のサブタイプについて取り組んでいるが、リソ&ハドソンの27タイプのネーミングの他に、Sandra Mitoriの著書を参考にしながら比較している。